ザ・たこさん 安藤・山口 インタビュー 前編(アイコン版)


ザ・たこさん ボーカリスト安藤&ギタリスト山口にインタビュー

ザ・たこさん 安藤・山口 インタビュー

2019,06,18 リズム&串カツ アガッタ!

トークセッション出演者

安藤安藤八主博 ザ・たこさんのボーカリスト

山口山口しんじ ザ・たこさんのギタリスト。

詳しいプロフィールなどは ザ・たこさんのホームページを参照ください。
ザ・たこさんの公式ホームページ

清水興清水興 ベーシスト、プロデューサー
「ナニワエキスプレス(NANIWA EXP.)」「HUMAN SOUL」「Medicine Bag」などで活動。 ⇒ Ko Shimizu’s Official Website

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東インド会社ビル。御堂筋の。

– – – もともと、「ザ・たこさん」を最初にやってたのは安ちゃん(安藤)の方やったんやね。

安藤まあ、そうですね。でも、結成1ヶ月後ぐらいで、山口が助っ人で加入しました。。

– – – その前はギタリストはいたの?

山口一年ぐらい、いてました。

安藤二人おって、カップルなんですよ。ほんで彼女のほうが、インド旅行に行く言うて(笑)

山口そやそやそや。

安藤まだ辞めた、という扱いではないんですけど。ほんで一人ではちょっとねえ。ずっとギター2本でやってたんで。ほんでちょっと、山口に、助っ人で。

山口バンド結成するときに、バンドのやりかた教えて、いうてきたから。僕、The Familytone やってたんで。で、仲良しやったんで。

– – – そうか、そん時、もうFamilytone やってたんや。

山口同じ雑居ビルで働いてたんで・・・。こいつが1階のラーメン屋、「海賊ラーメン」、で、僕が5階の「チャレヨ」という韓国料理屋。

– – – 職場は違った?

山口全然違います。

安藤ビルが一緒やったんです。

山口その雑居ビルが、7階のかもめ食堂というのがあって、木村(充揮)さんやらAZUMIさんやら、内田裕也さんやら・・・

安藤新井英一さんが、やってた。

山口石田さんも来てはったし。

安藤東インド会社ビル。道頓堀の。

山口「金龍」の御堂筋向かいです。真向かい。ロイヤルホストの右側。

– – – 北側やね。

安藤当時はまだロイヤルホストもなかったんです。

山口そうそう。

– – – 今もう(ロイヤルホスト)なくなってるけどね。

安藤あ、今ないんすか。へーえ。

山口・・・そこで出会ったんです。

– – – それ、いくつぐらいのとき?

安藤俺がね、十・・・十九すね。高校出てすぐ。

山口僕が二十歳ぐらいです。・・・ほんでそんときに、まだ(安藤は)芸人やったんですけど。

安藤NSC(吉本総合芸能学院)行ってたんです。

山口ジュニアとか、一緒に・・・千原ジュニア。

– – – そうか、その世代か。

安藤8期。

「セックスマシーン」、俺が名付け親やから。

山口・・・で、こいつがバイトやってて、芸人もやめて、んで、なんかヒマやー、いうて、なんかヒマやな、ってなってたやんな。ラーメン屋で。

安藤うん・・・ラーメン屋は、辞めてたから。

山口辞めとったんか。

安藤うん、三階が「セックスマシーン」ていうて。

山口ああ、そやそやそや(笑)シミ(清水興)さん、めっちゃ知ってる。

– – – 何屋さん?

安藤焼肉屋さんです。道頓堀にあるんですけど、もともとそのビルにあったんです。

山口「セックスマシーン」行ってたん?

安藤三階の「セックスマシーン」で、僕、バイトするようになって・・・

山口ふーん。あ、そうか、だから、シミさんがめっちゃ知ってはるんです・・・大阪のソウル・バーといえば。

安藤「ソウル・ファクトリー」とかね。

山口やってはった。

安藤やってはった。

山口それよりシミさんに全然話ししてなかった。そんな話を。

– – – 名前からして、ソウルやねえ(笑)

安藤やし、まあ、焼肉屋でねえ、「セックスマシーン」ですからね。

山口そこで働いてたんやな(笑) そやそやそや。

清水興「セックスマシーン」、俺が名付け親やから。

安藤ええええ、そうなんですか! 僕、あの、東インド(会社ビル)のとき、バイトしてたんです。

清水興あ、行ってたんや。

安藤1階の「海賊ラーメン」やめて。

清水興ほう、そうなんや。

山口そこで出会ってるんです。

清水興「なんかええ名前ないか、俺、焼肉屋するねん」って言うから、焼肉屋やったら、やっぱりそれ、R&Bとかやったら、ゲロッパ、クッパ、ビビンバ・・・

山口わはははは。

安藤なるほどー。

清水興「それええな!」言うて。

山口そやったんですね(笑)

安藤ゲロッパから行って、クッパに至って・・・

清水興で、ビビンバってくるやろ。ほなやっぱり、JB。ほなやっぱり「セックスマシーン」ちゃうか、いうて。

山口そうかあ。

清水興ほんで、ちゃんと、ロゴを、湯村輝彦さん、テリーさんに頼んで。「セックスマシーン」のロゴ描いてもらって。

安藤まあちょうど精つけて、カップルは。

清水興そうそうそう。ちょうどええ。

山口わははは。ちょうどええ、って・・・

清水興ほんで、ちょうどその頃に、・・・こんな話しとってええんかいな。

山口いやいや、いいんですよ。おもろい。

「マーヴィン」は、僕はもう、怖うてなかなかよう行きませんでした。

清水興・・・山岸潤史といっしょに「六本木スワンプ・バンド」やってて、それやってたときに、ちょうどね、あれね、『ぴあ』かなんかのイベントで、あの頃まだバブってたから、そんなバンドやってるときも、舞台、もう、ごっつ、大層やってん。巨大なアリゲーターの飾りもんがぶわーっときて、ほんで、これもコンサート本番も盛り上げてくれてんけど、『ぴあ』の人に、「これ、どうするんですか」。「廃棄します」言うから、「これ、もろてもいいですか」「あ、運んでもらえるんやったら持って帰ってください」言うて、あれ、開店祝いにプレゼントしてん。せやからしばらく、「セックスマシーン」の上に、こんなワニが、ずーっと。

山口うん!

清水興あれ、六本木スワンプ・バンド用のディスプレイやってん。

安藤あああああー。

清水興そんな話あんねん。

安藤でも、後期、ほんま、後期に僕は。

清水興ああ、そうか。後期やったら、もう外してるかもわからへん。

山口東インドの後期。

清水興ああ、そうか。あの頃な、曲がったとこにあったよな。

安藤シミさんも来てはったんですか?

清水興俺はね、東インドはね、あんまり行ってへんかってん。

安藤力哉さんはね、東原力哉さん。力哉さんは、よう来てはりました(笑)

清水興あの頃やったら、「セックスマシーン」、「マーヴィン」な。そこらへんうろついとったけどな。

山口「マーヴィン」は、僕はもう、怖うてなかなかよう行きませんでした。

清水興あははは、そう(笑)

山口一回行っただけで。・・・HUMAN SOULが、けっこうあっこらへんを紹介してましたよね。

清水興そうそうそう、うん。

山口80年・・・後半。『ぴあ』とか、そういう感じで。・・・テレビでも、「音楽は世界だ」で、ねえ。「大阪のディープスポット」で。

清水興ああ、そうそうそう。

山口YouTubeありますよ。「HUMAN SOULが紹介する大阪のディープな店」いうて。

清水興よくあんなバカみたいなことばっかりテレビでやっとったなあ。

安藤はははははっは(笑)

– – – そうか、あのころHUMAN SOUL にしてもナニワ(エキスプレス)にしても、テレビとか雑誌とかで、ねえ、よう、喋ってはるんですよね(笑)

清水興なんかねえ。そんな時代でしたね。

山口(オルケスタ・)デ・ラ・ルスと、HUMAN SOUL、俺、よう観に行ってたもん。

清水興同じ時期やったなあ。

山口「BAHO」がちょうど出たぐらい。

清水興そうそうそう。

山口で、BAND of PLEASURE。

– – – 90年前後。

山口キリンプラザの時ですよ。

清水興せや。その時代や。

ラーメン屋のカウンターで、僕が曲作って、店が終わってから・・・

ザ・たこさん 安藤・山口 インタビュー
安藤89年、が、俺が「海賊ラーメン」で。ラーメン屋の。

山口で、出会うねん。

安藤出会うた年ですわ。

山口89年に The Familytoneが、結成や。・・・で、「セックスマシーン」でバイトやってるときに・・・


安藤その「東インド会社ビル」が契約で立ち退きで、なくなるわけですよ。なくなって、その、僕がもともとおったラーメン屋は、日本橋の、千日前通り沿いの、・・・えー・・・文楽劇場の・・・

山口右っ側の、右っ側って、東っ側に、移るんですよ。坂登る手前に。

安藤で、またもっかい、そこで、僕、バイトすることになって。そこで、なんか、バンドやろかー、みたいなことになって。

山口なんかヒマやからバンドやろういうことになって・・・

安藤そこの従業員だけでね。

山口バンドやんねやったら、山口・・・まだ「山口さん」って言ったんです。山口さんがよう知ってるから教えてもらお、いうて。で、こいつら見たら、もう「ブルース・ブラザーズ」みたいやし、好きや言うてたし、ジョン・ベルーシ好きや、言うてたから。そんなんで、一緒にやり出した。一緒に、ていうか、ほんまにラーメン屋のカウンターで、僕が曲を作って、こう、みんな、練習しようや、いうて。ドラムはこんなんして、箸取って、やってたもんね。・・・店が終わってから。・・・夜中に・・・ビール飲みながら。

安藤ちっちゃいアンプでね。

まず、まあ「ブルース・ブラザーズ」で・・・

– – – その頃は、音楽のバックグラウンドとしては、安ちゃんはどのあたりを?

安藤僕はね、ソーバッドとか、そういうのを一切知らなくて、もう、もう80年代、で、洋楽聴き出した・・・まあ、もちろん音楽好きやったんですけど、まず、まあ「ブルース・ブラザーズ」で・・・

山口好きなんが、ふつうに80sの、たとえば「クラウデッド・ハウス」とか・・・

安藤別にブルースに・・・

山口ヒューイ・ルイスも大好きで・・・

安藤ヒューイ・ルイス、うん・・・ヴァン・ヘイレンも好きやし。

山口ラモーンズも好きやってんな。

安藤ラモーンズは後からや。

– – – アメリカやね。80年代の後半からヨーロッパのA-Haとか。

山口A-HAも、俺も好きやったし、みんな好きなんですよ。小林克也さんのね、「ベストヒットUSA」世代。

安藤MTVが、僕、ちょうど十四歳。

山口でも僕ら「POPベティハウス」(1980年代にサンテレビが放映していたミュージック・ビデオ・クリップの番組)ですよ。・・・80s大好きで、僕も80s大好きで、「ブルース・ブラザーズ」があるから・・・

安藤その前に、爆風スランプですわ。

山口初期のね。Pファンク時代の。

安藤でも、そんな、音楽のジャンルがどうとか、いう聴き方ではなかったです。そのあと、爆風が「ランナー」とかでおかしなって、・・・ところに、ブルーハーツですかね。高2、くらいかな。

山口「たいやきやいた」が、僕もびっくりして。

– – – なんか、妙にまとも路線に行ってからつまんないね。

安藤だから、四枚目のね、爆風は四枚目のアルバムで、僕は、ダメになったと、思てて。ちょうどその時が僕は十七ぐらいで。ブルーハーツがメジャーデビューした。

山口あ、そうなんや。

– – – 爆スラは「無理だ!」とか、ほんま面白かったけどなあ。

安藤ねえ。・・・初めて(コンサート)行ったんも爆風です。近鉄劇場。ね、中2、中3・・・

山口近鉄劇場、Pファンクもや。

– – – 爆風スランプって東京のバンドやけど、ファンキーやんねえ。

安藤ええ。

山口バップガンっていう、爆風銃ですか、ファンクバンドと、スーパースランプというのが合体して作って。そのバップガンのベースが江川ほーじんさんで。(大阪市立)工芸高校やねん。

– – – ああ、そう。あの当時、メジャーポップ・ロックで、あんなにバンバン、スラップやる人なんていなかったもん。

山口そうそう。

– – – 巧かったもんねえ。

山口ラリー・グラハムが大好きで。あとスライ・アンド・ファミリーストーン。

– – – まあ、ラリー・グラハムが・・・みんなそやったてんね。

山口みんなラリー・グラハムですね。

K2レコードがねえ、メチャメチャ良かったんですよ

山口で、ブルースをよう聴いててんな。

安藤いや、ブルースだけ(では)・・・、ま、入り口は「ブルース・ブラザーズ」で、で、おぼろげに、あの映画でかかってる音というか、音楽は、絶対ブルースじゃない、って思うてたんですよ。ブルース、って、知らんけど、ソウル・ミュージックじゃないですか、かかってるのは。でも、そんな区別もでけへんけど、でもブルースってこんなんちゃうやん、なあ。ある程度ソウルとか、オーティス(・レディング)とかは、その時、二十歳ぐらいでは、もうわかったんで。で、それで、ブルースをちゃんと聴こう思うて、近所の・・・

山口あ、K2(ケーツー)。

安藤K2レコードへ。

山口近大、・・・近大前の。

安藤ええ。あの、貸しCD屋。

山口K2レコードがねえ、メチャメチャ、良かったんですよ。関大前にもあったんですけど。K2。僕、そこでもう、メチャメチャ、あの、「8・8ロックデイの軌跡」とか、借りました。

安藤僕は、ブルース、ばっかり、もう、ね。もう、何聴いてええか最初はわからんかったけど、覚えてますわ、いちばん最初に借りたん。

山口何?

安藤もう、名前で決めよ、思って。ハウンド・ドッグ・テイラー。

山口ああああ。・・・あ、そやったん。

安藤うん。何を借りてええかわからんから。

山口ほんで、もう、シカゴ(・ブルース)が好きになったんやな。

安藤ほんで、・・・女性も借りなあかん、いうて、それで、エタ・ジェイムズ。

山口ソウルフルやん!

安藤エタ・ジェイムズ、うん。いや、そら、名前で選んでるから。「ブルース」コーナーにあるから。

– – – (当時)ソウル・ミュージック好きな連中は、マイケル・ジャクソンとか、クインシー・ジョーンズ全盛の時代やから、そういう洗練された方向ばっかり行っててんね。

山口そうなんです。

安藤うん。

– – – で、ポップスとどう違うんやろ、みたいな感じ(笑)

山口AOR寄りになりましたよね。

– – – そのディープなブルースって、リアルタイムではなかなか入ってこなくって・・・

山口思い出した。僕らは、リアルタイムやったら、ロバート・クレイやった。

安藤ああ、ロバート・クレイ。

山口ロバート・クレイと、(スティーヴィー・)レイ・ヴォーンですね。「スモーキング・ガン」やったな。

安藤うん。

山口もちろんB・B・キングは、たとえばグラミーとかやったら出てくるような人やから、そら・・・僕は、ブルースってB・B・キングやなって思ったもん。なんかようテレビで見る人・・・憂歌団は、僕らは、やっぱり中学、高校ぐらいで、やっぱり知ってるんですよ。

安藤うん、うん。

山口テレビに出てたから。

安藤テレビやね。

山口あの、(島田)紳助の、「ねむれナイト」っていう深夜番組やってて、あれ何年前やったかな。それの、エンディングが憂歌団なんですよ。

安藤スッポンポン、や。

山口安藤「♪スッポンポーンのポーン」、ですわ。

山口で、「ザ・エン歌」もそれでやってて、俺、大好きになって、それが中学校2年か3年。こいつが中1か。

– – – K2レコードっていうのが、やっぱりそういう品揃えが豊かやったんやね。

山口すごかったんです。

安藤でね、K2レコード、たぶん日本橋、にあるんじゃないですか。

山口ああ、あるあるある。

安藤日本橋のK2も、いっしょのあれですから。品揃えは、すごいですよ。・・・デイブ・リー・ロスの12インチのCDが(笑)

山口12インチのCD。

安藤(笑)12インチのCD盤。「カリフォルニア・ガールズ」聴こう思うたら12インチやないと無いから。

   ※12インチのCD = レーザーディスクの事

山口当時、関大前のK2レコードは、関大の先輩方がバイトやってたんですよ。だから、もうルーツミュージック、ガンガン入れてて。で、ピーヴァイン(レコード)もブワー、あったんや。ほんで、7枚借りたら1枚タダになるんで、もう、俺、好きで、昼、バナナ100円で、8房あるバナナを買うて、ほんで四時から賄い食えるから、全部、お金を、それに、レンタルにつぎ込んで、テープに落として、ほんで、チャレヨの大将に、「ええやん、山ちゃん、ええやん」、言われて。

– – – 山ちゃんも、K2で育ったん?

山口僕も、K2で育ちましたね。そのルーツミュージック。・・・で、ある日、もう頼むから店の経費で出してくれ、て言うて、それ、全部経費で出してもらえるようにして。

安藤よかったな。

山口そのかわり、めっちゃリクエストもろて。それがまた、AOR、フュージョンが多いんですよ。でも、それでめっちゃ勉強になって。「ダイアナ・マーヴィン(ダイアナ・ロス&マーヴィン・ゲイ )、借りてきて」・・・めちゃめちゃ良かったですよ。<

山口くん、ソウルなんて、もう、絶対流行らんから

ザ・たこさん 安藤・山口 インタビュー
山口で、89年に僕は、鰻谷の服屋でバイトやろ思って行ったら、そこの大将に「ええとこあんねん、山ちゃんソウル好きやろ」。んで、「ソウル好きやんなあ」「そこもな、ソウルがらみやねん」。って行ったら、韓国料理屋やねん。・・・ソウル違いや!って。

安藤ふっはっはっは。

山口でも、そこの大将が、もうめっちゃソウル好きやってん。ほんで、「山ちゃん、全然知らんやん。ほんま、自分、田舎もんやなあ」言うて、けなすねんけれども、いっぱいテープ、ドラマティックスの「(ドラマティック・)ジャックポット」とか、CD出てなかってん、当時。レコード探すのも大変やねんけど、そんなんを、いっぱいダビングしてくれて、昔のやつを、「もうテープやるわ」言うてくれて。

– – – そういう場所なんですね。K2レコードもね、関大前、近大前にあって、そういう、好きな人たちがバンバン、コアなコンテンツ入れてきて・・・

山口ピーヴァイン・コーナーがあったんですよ。

清水興すごいな。

安藤ちょうど90年ぐらいですよ。1990年。だから僕がブルース聴きだした年です。それでも、ガーッ、ありましたからね。

山口リクオさんらが、ガンガンCD入れとったと思う(リクオも関大出身)。

– – – 逆に言うと、ソウル好きやろ、でつながって行くってことは、そんなに多くなかったんやね。一般的には。

山口ないですね。あの頃、だって、バンドブーム終わり、フォークブームなんですよ。フォーク。「イカ天」(テレビ番組の「イカすバンド天国」)があったし。バーの大将とかいろんな人から「山口くん、ソウルなんか、もう、絶対流行らんから」ってよく言われた。

安藤うん。

山口「今頃ソウルって、お前ら何やねん」ってよく言われて、当時、俺、泣いてんから。で、俺、お前にも相談したで。室(隆雄、The Familytone)にも相談した。今からブルースブラザーズみたいなバンドやろうとしてんのに、ようそんなこと言うよな(笑) でも、何年前かな・・・10年ぐらい前に褒められて。まあ、可愛いがってくれててんな、と思うけど。ずーっと、「もう、あんなんあかん、それ聴くんやったら、これ聴かんと、もう全然、お前は」って、よう言われたけども、でも褒められてん。10年ぐらい前かな、安藤と。「長いこと辞めんとようやったな」って。

ボサ・ノヴァやってるんですよ。「純喫茶レイコ」

– – – 90年前後。東京のレコード業界とか世界のトレンドというと、「ワールドミュージック」っていう言葉が出てきた頃やってん。

山口「11PM」の水曜が今野雄二さんで、ほんで、シカゴ・ウェアハウスとかアシッド・ハウスとか言ってて、ほんでサリフ・ケイタとか、ディック・リーとか、だからワールドミュージック・ブーム、あれ80・・・6、7年・・・?

– – – で、そのちょっと前に、85年か、「We Are The World」、あそこに、当時の、一番の人気歌手たちが集まってきてるわけでしょ。で、そこで復活したのがボブ・ディランと、レイ・チャールズ。

安藤うーむ。

– – – ああやっぱり上手いなと。でも、レイ・チャールズはあのときやっぱりミュージシャンたちの、ボブ・ディランもそうやし、ミュージシャンたちのリスペクトで登場して・・・

安藤うーむ。

– – – ボブ・ディランって、あの頃、ボブ・ディラン史上、もっとも売れてない時代やったんや(笑)

山口トム・ペティ観て、ボブ・ディランってこんなんなんやな、とか思ったもん。

– – – で、レイ・チャールズが、「いとしのエリー」歌ったやん。

山口「エリー・マイ・ラブ」。

清水興日本のな、CMで何がすごいかって言ったら、サミー・デイビス・ジュニアとか、マイケル・ジャクソンとか、ああいうのは、全米では、有色人種がナショナル・テレビに出るなんてありえない時代に、日本では呼んでたから・・・

– – – だからあの頃ブルースっていったら、もう、底の底。

清水興でも、全部そうなんですけど、アメリカの歴史ってのは、たとえば、キャデラック・レコーズなんかの後半でもそうだったように、本国でもうどうしようもなかったころに、彼らが出してたレコードにインスパイアされた、ヨーロッパとかロンドンのスーパースターが、アメリカから先生方を、兄さん方をお呼びして・・・

山口で、「ザ・ビート」とか。

清水興で、もう一回花が咲くってことが。ブルースでもあったけれども、ジャズなんかでも同じように、パリとかでたとえば、マル・ウォルドロンとかが、自分の生活できる場所を見つけて、純粋なジャズっていうのはアメリカの国内じゃなくて、やっぱりヨーロッパで生き延びていく、みたいなところと、日本なんかも純粋に、音楽で、好きなものが判断されていたので、そういう、たとえばレイ・チャールズなんかに関しても、そういうことが起こって・・・アメリカで生まれた音楽でありながら、その良さっていうのが、長い時間で、ふつうの、商業ビジネスを超えたサイクルで、育まれる可能性っていうのが、ヨーロッパであったり、アジアであったりあったっていう感じじゃないかなって気がします。

– – – ボサ・ノヴァも、軍事政権の時代には昔の腐敗した時代の音楽ということで弾圧されて、みんな亡命してたんですよ。85年に民政復帰したっていうのがひとつ大きい理由なんですけど。アンテナってヒットしたでしょう、あの中で「イパネマの娘」のパロディをやってたり・・・

清水興アンテナって、「クレスクプキュール」とか、ヨーロッパのレーベルやろ?

– – – そう、ベルギーですからね。あれがボサ・ノヴァネタなんですよ。それから、スタイル・カウンシルもそんなの一曲やっているし。

清水興ああ、ああ。

– – – それからね、もうちょっと後ですが90年くらいかな、バーシア。バーシアが「アストラッド」っていう曲を書いてるんですよ。

山口アストラッド・ジルベルトの。

– – – そういうの、後の世代がリスペクトして、それで掘り起こしてきて。僕、90年ごろに、年配の人に、どうしてあなたみたいな若い人がボサ・ノヴァなの?って。ブラジルでもとっくに忘れられて・・・

清水興ああ、でも、そういうもんかもしれませんね。

– – – それがこうリヴァイヴしてきて・・・

山口まさか俺、忘れられてる音楽って思ってなかった。ボサ・ノヴァって。聴いてもかっこいいし。

– – – 完全に忘れられてた。88年にブラジル行ってね、イパネマの楽器屋行ってね、ジョアン・ジルベルトの譜面あるかって聞いたら、けったいな奴がきたなあ、って(笑)

清水興マジ?

– – – 完全に過去の、終わったもの。

山口国民的ヒーローやと思ってたのに。

– – – それは、その後。だからたぶんソウルも、案外そんなんで・・・考えたらそやわ。僕も、ブラジル音楽好きやねんなあ、って言って、デビュー直前の小野リサさんの、お父さんの「サシー・ペレレ」に、上智大学のポル語(ポルトガル語学科)の人たちに連れて行かれたことがありましたけど・・・

山口僕らもボサ・ノヴァちょっとやりましてね。

– – – あ、そう(笑)

安藤ボサ・ノヴァやってるんですよ。純喫茶・・・

山口「純喫茶レイコ」

– – – あっ、そう、か。

山口(笑)

– – – クリーントーンの、珍しい。

安藤ボサ・ノヴァ、やってますよ(笑)

山口めっちゃ、もうトーン絞って。

– – – あれ、びっくりしたわ。「くいだおれ」(の旧店舗跡)でライブやったとき。

山口うん、そうそう。有山さんが、あれが一番ええ、って。

安藤元歌は、あれ、浅田美代子のね。

山口何?

安藤いや、何回も言うてるやん。「♪あのー子はー」

山口あれ? ほんまや(笑)

安藤(その話は)もうひゃっぺらべんしよるで。

山口俺、もう、全然知らんかった。

安藤ふっ、くっくっく(笑)なんで覚えてぇへんねん(笑)

山口ほんま、もう。

安藤自分で作ってへんからや(笑)

山口うんうん。

安藤あれは歌メロ俺が作ったんや。

山口そうなんですよ。自分で作ってなかったらやっぱり覚えてない。

安藤もう忘れててるねん。

あんなんな、政治結社やからな、聴かんでええねん、って言われて

山口二十歳のときに、その僕がバイトしてた「チャレヨ」という店に、石田さんが来はったんです。僕ちょうど「K2」で、ソー・バッド・レビューを借りて、めっちゃ聴いてたんですよ。「♪おかあちゃん、おかあちゃん、おかあちゃん・・・」、好きやった。で、僕ソー・バッド・レビュー、大ファンです、って言うたら、もうBAHOやってはったんですけど、「あんなんな、政治結社やからな、聴かんでええねん」、って言われて。ニコニコしてはったんやけど、マジでそんなん言われたら、怖いじゃないですか。で、そっからもう、よう話しかけへんで・・・

安藤くくくくく(笑) 政治結社って、そもそも、どういう意味?

山口いや、これ、シミさんに聞いたほうがええかな。僕、石田さんに、二十歳のときに・・・

清水興うん。

山口店で、僕がやってた店に来はって、ソーバッド大好きですって言ったら、政治結社やからあんなん聴かんでええって・・・

清水興あはははははは(笑) いや、そんなにね、深い意味を感じなくてもええねん。

山口でもね、鼻赤うしてね、笑うてはるねんけど・・・

清水興鼻が赤いのは肝臓悪いだけやねん(笑)

山口(笑)そうなんですか。いっつも鼻赤くして。

清水興ちょっと肝機能弱かっただけや(笑)

山口ほんで、もう、ビビってもうて、もう絶対、もうあかん、もう話しかけられへん・・・

清水興いや、そんなん、全然・・・

山口で、最後に話しかけたのが、帝塚山音楽祭やったんです。

清水興ああ、そうなんや。

山口あの、シミさん・・・

清水興ああ、一緒に演っとった・・・

山口で、今から、大塚ちゃんの、あれ、FM Cocoloの、録りやからって、ほんまか、ありがとうな、言うてくれて。「チャレヨ」で働いてて、東インドの、ああ、覚えてるで、って。

清水興そやそや、あれ、政治結社いうのは、いろんな、音楽の話をいろいろ訊かれるのが嫌やから言うてるだけやから、全然。

安藤ああー。

山口そのときにシミさんおったらなぁ。

清水興(笑)

山口今みたいに。だって、ほんま、もう、俺、テレビで観てる人らやし。

清水興あはははは(笑)

山口俺、タモリさんの「音楽は世界だ」も観てたもん。

清水興ああ、あれなあ。ようあんなアホなこと言うなあ、思うてたやろ、ほんまに。

山口いや、いや、うわ、って。だって僕らバイトやってるとこやから。・・・ファンキー・チキン・ウイング。(笑) ファンキー・チキン・ラーメン。

清水興ファンキー・チキン・ラーメンな。

安藤ファンキー・チキン・ラーメン、ありましたね。

清水興西大橋のあたりな。

安藤あそこ美味かったです。

清水興あれもDJのベグがやっとったやつな。

– – – 結成にいたる話はまた続編ということで。

清水興ワハハハハ。

安藤ねえ。これは・・・まだ結成されてない・・・

山口前夜や(笑)

 

続編につづく

(インタビュー・構成 柿木央久)